伊香保に、湯の花まんじゅうあり



【「湯の花まんじゅう」今昔】


 戦前の伊香保は静かな湯治場であったが、避暑地としても多くの人々に愛されていた。 皇室の御用邸もあり、夏ともなるとしばしば皇族方が避暑にお出でになることが多かった。 気軽に散策もなさったようであるが、そんな折、湯の花まんじゅうを茶菓として、 またお土産としてお買い上げになったこともあったのだという。
 こうしたきっかけがあってのことだろうが、伊香保名物として産声をあげた湯の花まんじゅうが、 昭和9年、名実ともに群馬県の銘菓として、日本全国に知れわたることとなった。 本県で催された陸軍特別大演習の折り、天皇陛下が湯の花まんじゅうをお土産としてお買い上げになったのである。 軽く今の軽トラック1台分の量はあったというから、当時の伊香保にとっては上を下への大騒動だったわけである。
【茶色のまんじゅう】


伊香保温泉の泉質は含鉄・カルシウム・硫酸塩泉。 いわゆる鉄泉なので、湯の色は茶褐色。 タオルを入れると茶色に染まってしまうほどだ。 その湯の色に似せて作られたのが湯の花まんじゅうである。 当初、その湯を使ってまんじゅうの色を出したというが、 試行錯誤の上、黒砂糖とカラメルを使うことで 現在馴染みのある茶色のまんじゅうに落ちついたのだという。
【竹カゴ】


 戦前の伊香保はゆったりとしていて、多くの文人が訪れるなど、 まさに古き良き時代の雰囲気に満ちていた。そんな中、避暑にお出でになっていた北白川宮妃殿下が、 宮中へのお土産に「湯の花まんじゅう」を持ち帰られることになった。 しかし、真夏のことだったので、下手に包装すると、まんじゅうが悪くなってしまいかねない。 そこで思いつかれたのが、竹カゴに入れることだったのだそうである。
 それまでは経木に包むだけであったから、 便利ではあったが見栄えがするというわけにはいかなかった。 それがまんじゅうを竹カゴに入れて包装してみると、 これは大変具合良く、また風流なものになった。 以来、伊香保ではこの竹カゴに入れて売ることが主流となっていったが、 この優雅な習慣は長くは続かなかった。 戦中、戦後の一時期、砂糖の統制でまんじゅうが作れない時期があったこともその理由の一つだろうが、 竹カゴは高いし、かさばるだけということで、戦後はたちまち、へぎで作った箱に取って代わられてしまったからだ。
 この竹カゴが倉渕村作られていたことは、後に、 たまたま湯の花まんじゅうを買いに来たお客さんから聞くこととなった。 その人は店に飾ってあった竹カゴを見て大変懐かしがったのだが、 その理由を聞いてみると、昔、青年団の冬の資金稼ぎに竹カゴを作ったのだと言う。 後日談である。
【もみじまんじゅう】


 伊香保のもみじについては、昔から数多くの歌に詠まれている。 かつて伊香保には天然のもみじが今よりもたくさんあって、 それは美しかったという。
 湯の花まんじゅうを作る一方で、どうにかこのもみじにちなんだお菓子を作ることができないか。 そう考えたまんじゅう屋の店主は、宮島のもみじまんじゅうをヒントに試行錯誤を重ねた。 そして、ついに店頭に並べることができたのが、20年ほど前のことである。 宮島や広島のもみじまんじゅうも、全国的にはまだまだ名前を知られていない頃のことだった。 その後まもなく、もみじは伊香保町の木に指定されることとなる。
 昭和58年のあかぎ国体の時には、天皇・皇后両陛下に献上され、 もみじまんじゅうは群馬県の銘菓として知名度を上げた。 そして、数年前にも滋賀県のとある町で主催された「もみじまつり」に、 全国のもみじにちなんだ銘菓として出品を要請されるなど、 今やもみじまんじゅうは、湯の花まんじゅうと並ぶ伊香保の名物となっている。
【マニュアルはありますが、最後はやっぱり勘が物を言いますね。】


 おまんじゅう屋を始めたのは先代になってからです。 昭和11年頃と言いますから、60年ぐらい前ですか。 東京の栄太楼というところから職人を引き抜いてきて、 ゼロからスタートしたわけです。 先々代は酒屋でしたからね。
 私が大学を卒業して家に戻り、家業を継いだのが、昭和37年。 そして、大通りに面した現在の場所に店と工場を移したのが42年です。 その頃は榛名湖でのスケートが全盛で、 土曜の夜ともなると大変な人が訪れました。 それを親父と見ていて、このお客さんをただ返すのはもったいない、 うちのまんじゅうを食べてもらいたい、 と言うことで移転する決断をしたんです。 それから、20年前には忘年会に的を絞って売り出すことも始めました。 そのせいか、うちは12月が一番忙しいんですよ。